嫁姑の苦労はしていないが、同じ屋根の下に生さぬ仲同士住んだことはある。
二度目の(つまり現在の)父になった人は根は優しい人ではあるが粗野で教養もないし物事を理屈で考えたり話したりできない人で、だからもともと子どもは中卒でいいという考えだったし大学などとんでもないことで、私の高校の授業料などはびた一文出さなかったし小遣いももちろんもらえなかった。そして母を通じていつも「おまえの年なら働いて家に金を入れるのはあたりまえ。食わせてやってるだけでもあたりまえと思え」と聞かされていた。
母子家庭の時は毎日心臓発作を起こす母のために医者のポケベルを鳴らし弟に食事をさせ毎夜母の愚痴を聞きと、立派な大人の役目を課せられていたのに、母の再婚以降は年を重ねているのにも関わらず私はコドモに格下げで、ちょっとでも母に横柄な口を利くものならこの父は「子どものくせに親になんて口のきき方や!」と怒鳴った。理不尽極まりない。
食事時に足を崩したと言って食卓ひっくり返されたこともあったかな。星一徹は昭和末期にはまだ確認されていたんです。
横暴で、男尊女卑で、封建的な人だが、それでも仕方ないと思っていた。分かり合えるなんて希望は早くから捨てたし、結局この父は末っ子の甘ったれでこちらが好意を示せばそれを無碍にはできないとわかったから、せっせと台所に立っておこちゃまな父の口に合うものをこしらえて手なずけた。
(父は長い間独身で、その母(私の義祖母)も料理下手だったので、飲食店で出るようなオムライスとかスパゲティとかかつ丼とか、ホットケーキだとかが好物だったのだ。)
そのうち、地元の名門校で私の成績がかなり上位だとなんとなくご近所に知れてしかも始終台所に立ったり義祖母の下の世話などをしているのも母がふれまわったので私は父には自慢の種になったらしく、大学に合格した時も当時は地方版に合格者の氏名が発表されたが私の名の載った紙面を今でも確か持っているというほど、私の大学入学も喜ばしかったようだ(だが学費は負担してもらっていない)。

義祖母というのは、これはもう当時80に近く、私たちが同居しだした頃は転んで大たい骨を骨折して入院していたがしばらくして退院した。白内障で目がほとんど見えなかったし耳は補聴器をつけていても遠く、しかも私には当時ちんぷんかんぷんだった奈良の和歌山よりの古い方言を叫ぶ(耳が遠いから大声)ので意思疎通は全くできなかった。
でも、私はヨイコだったから毎日
「おはよう」
「いってきます」
「ただいま」
「おやすみ」
と大声であいさつしていた。
しかし、義祖母には血のつながった孫以外は孫ではなかったらしく、食べ物とかお年玉とかロコツに差別された。
義祖母はよく電話で食料品店にあれこれ注文を出して配達してもらったのだけれども、お菓子とか果物とか大量に買って台所に置いてあっても、私と弟には一切くれなかった。それどころか、数が減った、食べただろうと疑われる始末。
義祖母の買うみかんはL玉の高級品だったが、私は、東京に行った時に伯父がくれる小遣いを温存しておいて通学路の途中にある小さな八百屋で一盛り100円のs玉みかんを買ってきて弟と分け合って食べた。
義祖母については特に何か対処しようとは思わなかった。血縁じゃなければ差別するというのはそれはそれで仕方ないだろう。こっちが「火垂るの墓」みたいに餓死しそうだったら別だけどみかんもらわなくても小遣いくれなくても死にゃしないし。たずねてきた父の兄弟たちにあからさまに母や私たちの悪口を言っていても(耳が遠いから隣の部屋にいてもわからない&大声)返って思っていることが筒抜けなのでダメージなかったし。
それに、結局のところどうせ先に死ぬ人だと思ってたし。
そういう義祖母の下の世話をしばしばしたのは、貸しを作るような気持ちで返って爽快だった。

義祖母の葬式の後の席で父は「どれだけ孫がいてもお母ちゃんの下の世話をしたのはつぶらだけだったやろ」と他の兄弟にけん制したみたいだ。そんなことで自慢されても…私にしたらかなり屈折した思いでおまる使ってましたから。

私は親孝行だと言われる。義祖母にならって私を姪だとは一切認めなかった義理のおじおばも口々に父に言うらしい。
でも、私はホントは親を親とは思っていない。都合よく私を使って生きてきただけじゃん。そして今は老いていろんなことをまた私におっかぶせようとしている。
でも、私はそんなことは全くおくびに出さず、きっとこれからも期待される人間像を演じ続けるんだろうな。
私の人生は結局そこだけにエネルギーが消費されてるみたいだ。くだんねー。